赤井官衙遺跡群は、宮城県東松島市にある「赤井官衙遺跡」と「矢本横穴」からなる遺跡群です。 今から1,300年ほど前、現在の東松島市は古代牡鹿郡(おしかぐん)に属していました。当時、各郡にはそれぞれ役所(郡家)が置かれており、牡鹿郡にも『牡鹿郡家(おしかぐうけ)』が設置されていたと考えられます。また、朝廷は、支配範囲を拡大して領土を北へと拡張しており、支配下になかった人々を蝦夷(えみし)とひとまとめに呼んで、境界にあたる陸奥国(宮城県)北端の地域に、城柵(じょうさく)と呼ばれる辺境支配のための政治的・軍事的拠点施設を設置していきました。日本の歴史書である『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、これら城柵のひとつである『牡鹿柵(おしかのさく)』が牡鹿郡には設置されていました。 古代牡鹿郡を治めていた豪族が道嶋氏です。道嶋氏は、飛鳥時代の中ごろ上総国(千葉県)から朝廷の命令により牡鹿郡に移住してきた丸子氏の一族と考えられています。当時、朝廷はその支配を広めるため、関東地方をはじめ東北地方以南の地域から、さかんに人々を北部へ移住させていました。この地に移住し定着した丸子(のちの道嶋)氏は、やがて移住先の集落を役所または城柵に造り替え、この地を治めるようになりました。さらに、一族の墓(横穴墓群)を集落近くの丘陵に造営し始めました。 これまでの発掘調査によって、赤井官衙遺跡は、丸子・道嶋氏が治めた古代牡鹿郡の役所(官衙)である『牡鹿郡家』または『牡鹿柵』(あるいはその両方を兼ねた施設)と推定されています。また、矢本横穴は、丸子・道嶋氏をはじめ、牡鹿郡の役所に勤務した役人や関東から移住してきた人々の墓であることが明らかとなっています。 このように、赤井官衙遺跡群は文献史料に記された歴史を考古学的に証明できる非常に重要な遺跡群であり、古代の東北地方の歴史を解き明かす鍵となる貴重な文化財なのです。 この重要性を鑑み、令和3年3月、赤井官衙遺跡と矢本横穴は、あわせて「赤井官衙遺跡群」として国の史跡に指定されました。 | |
国内で唯一帯付きで出土した革帯 (矢本横穴) |
古代の役人が正装の際に身に付けた革帯 (推定復元図) |
「赤井官衙遺跡群」の国史跡指定について 「赤井官衙遺跡群(赤井官衙遺跡・矢本横穴)」の史跡指定は、令和3年3月26日付の官報(号外第70号)において告示されました。 |
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